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アメリカサーカス史
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アメリカのサーカスの生い立ちを簡単にまとめてみました。本当に超概要ですが・・・・

サーカスの歴史は長く、ローマの大競技場における壮大な戦車競争は、古代のサーカスの華ともいえます。それから中世の辻芸人、近世初期のさまざまな軽業師、特にイギリスで発達したお祭りの見世物などを経て、十八世紀の後半にイギリス人フィリップ・アストレーが開拓した曲馬中心に近代サーカスが誕生します。

アメリカにサーカスがはじまったのもこの十八世紀でした。
1793年、ジョン・ビル・リケッツが当時のフィラデルフィアに演技場をつくり、曲馬中心の見世物を始めました。
アメリカ産のサーカスはジプシーのように街から村へと渡り歩き、大別すると、それは2つのグループに分かれます。一つは曲馬的なグループであり、もう一つは田舎者の目を楽しませたり驚かせたりする動物を連れたグループです。これらはいずれも一般庶民に歓迎されましたが、しかし同時にピューリタン的伝統の強い教会派からは、下賎で冒涜的な興行として排斥されました。だがともあれ、サーカスは急速に発達しました。

なお、曲馬的なサーカスの一つの流れとして、無法者とインディアン、それと戦う勇気ある白人という内容の西部芝居が盛況を見せていましたが、芝居ではどうしても西部の実際はみせられないということで、カウボウイ、インディアン、斥候、それに馬やバッファロー等を集めて、1883年屋外のスペクタクルショーが人気を博しました。やがて「ワイルド・ウェスト」ショーと呼ばれるようになります。この「ワイルド・ウェスト」はやがて衰退していき、やがてはサーカスの後の「アフターショー」として命脈を保つことになります。

このあたりは日本の「馬芝居」と同じような状況ですね。

フィニアス・T・パーナム(1810−91)はアメリカのサーカス、あるいは広くショービジネス全体の象徴であったといえます。
1871年パーナムは自分の博物館的な見世物ともう一つの方の曲馬的サーカスとの結合にのりだし、そして前代未聞の大サーカス「パーナムの大博物館・動物園・キャラバン・曲馬場・サーカス」をつくりました。

1874年にはニューヨークに一万人を収容する「パーナムのローマ式台曲馬場」をつくり、それが今のマディソン・スクエア・ガーデンの前身です。やがて自分のサーカスを「地上最大のショー」と呼ぶようになったのです。

1880年、ジェームズ・ベイリーと手を組んで「パーナム・アンド・ベイリー・サーカス」をつくりましたが、1891年にパーナム、1906年にベイリーが死ぬと、1907年に彼らのサーカスは新興のリングリング兄弟(リングリングブラザーズサーカス)に売られました。

現在の「地上最大のショー」という宣伝での「リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」がそれです。

なお最後に、サーカスの移動手段としての流れを見てみます。
十九世紀に入るとサーカスは馬車(ワゴン)で移動し、「ワゴン・ショー」と呼ばれ、1869年大陸横断鉄道ができると、十九世紀の中からは鉄道で移動するようになります。「レイルロード・サーカス」と呼びます。やがて二十世紀に入り、鉄道が衰退し、自動車が発達し始めると「トラック・ショー」の時代となるわけですが、多くのサーカスがテントをやめ、屋内で公演するようになり、機材類はトラックで運搬できるため、それがサーカスを都市に集中させ、田舎の人はなかなか見れなくなってしまったようです。

参考文献
「サーカスが来た!」亀井俊介/岩波書店


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