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日本サーカス史
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日本の<サーカス>は明治に始まる、といわれるそうです。
要するに単一の見世物芸がいくつか総合されて今までにない構成で装いを新たにしたのがこの時期にあたります。しかし一つ一つの芸は突如として生まれたのではなく、源流は古代にまでさかのぼり中国から渡来した<散楽>に見い出すことができます。

しかし、ここでは日本に<サーカス>の芽が出始めたといわれる明治あたりから話を進めたいと思います。

1.日本曲馬
サーカスを語る上でまず<日本曲馬>の存在を知っておきましょう。
日本曲馬は馬上での曲乗りで世評も高かったが、寛政(1789〜)から文化・文政(〜1829)期にかけて全盛を極めた曲馬は、早替わりや歌舞伎狂言を取り入れた曲馬芝居が演じられるようになってからは、演劇的要素を帯びた曲馬が日本曲馬の主流となっていきました。
つまり日本曲馬は、曲馬自体の芸より曲馬芝居(=馬芝居)の演目が主体であり、芝居風とでもいえるわけです。

2.西洋見世物団の来日
西洋人の見世物としての来日の経緯を追ってみましょう。
西洋見世物団として初めて、元治元年(1864)アメリカのリズリー・サーカスが横浜に来日。2回目は明治4年(1871)フランスのスリエ曲馬団が来日。3回目は明治19年(1886)にイタリアからきたチャリネ曲馬団が来日し、猛獣を含むサーカス興行は一大センセーションを巻き起こしました。
チャリネは明治22年(1889)再度来日し、西洋曲馬と言えばチャリネと言わしめるほどの大きな反響を残し、以降サーカスをチャリネと呼ぶ人もあったそうです。
その後も大きな興行団ではないが外人曲馬師たちが来日しています。

明治以降、曲馬・馬術のような類からしだいにサーカスの形態に近づいていきサーカスの原型があらわれてきて、いわば近代サーカスの芽が明治20年前後にでてきたといえましょう。

3.海外渡航
幕末から明治にかけて多くの芸人が海外に飛び出していき、海外巡業後、日本でバラエティにとんだ演目を見せる形式が進展していきました。ここで<西洋曲馬>が日本に浸透していくわけですが、明治20〜30年代には見世物会の新展の一翼を担った一座が活躍していました。
例えば、早竹虎吉一座、山本小嶋一座、江川一座、七草徳造一座、金沢浅太郎 一座、山田亀吉一座、松村太郎大曲馬、などがそうです。

4.日本曲馬団のさきがけ
ようやく日本にも西洋曲馬が定着し、曲馬・軽業・動物の芸が合体した一座が発足し、より変化のある演目をもつ興行団を組織する方向へ進み出ました。

さてここで日本曲馬団のさきがけを2つ紹介します。ちなみに、正式に「曲馬団」という名称が見えてくるのは、明治12、3年に上野で平和博覧会が催されたときが最初のようです。

5.日本曲馬の衰退
西洋曲馬すなわちサーカスが浸透していき軽業界は刺激をうけ、伝統の軽業と大いに融合し得る可能性を見いだし、触発されたといってよいほど向上発展していきましたが、しかしそれに反して日本曲馬(=曲馬芝居=馬芝居)の場合は西洋曲馬と本質的に異なる物であったので、西洋曲馬の圧倒的な人気に対して次第に衰退していき、地方廻りに追いやられる格好となりました。

6.サーカス誕生
曲馬団は明治中期から新しい見世物の雄として脚光を浴びましたが、大正期に入って進展して活躍していったもののこの時代なりに活動写真、電気仕掛の見世物などの娯楽が増えかげりが見え始めました。
曲馬団という名称は昭和初頭までつづきましたが、団員150名、182頭猛獣を引き連れて昭和8年(1933)に世界一の動物調教を誇るドイツのハーゲンベック・サーカスが来日し、日本国中で異常な人気を得たそうです。

これをきっかけに日本の曲馬団は全国的にサーカスと名乗るようになり、サーカスは庶民の娯楽として定着していきました。

黄金期を迎えたサーカスもやがて太平洋戦争で芸人も若い衆も徴兵に駆り立てられ、昭和17年(1942)にはサーカス団は全部で約33ほどありましたが、戦時中は国内情勢強化という理由で全猛獣を毒殺または銃殺し、手足をもぎ取られたと同然の状態まで追い込まれたサーカスは残った者達で細々と慰問興行を行っていました。

7.そして戦後
戦後、サーカスは再建にのり出し徐々に活気を取り戻していきました。
しかし、昭和23年(1948)の児童福祉法が制定された。これにより「公衆の娯楽を目的として曲馬または軽業を行う業務」に満15才未満の児童を使用する事が禁止され、年少期に芸を仕こまなければならないサーカスにとって、芸の後継者を育てる事が困難になりました。
現在日本のサーカスで子供達が出演しないのはこの法によるものです。

昭和28年(1953)にはアメリカの超大作映画「地上最大のショウ」が上映され、リングリングサーカスの全容が紹介されました。

昭和31年(1956)には「日本仮設興行協同組合」が設立され、有田洋行、木下、シバタ、矢野、キグレ、ゴールド、赤林、日本、原田、カキヌマ、金丸、国際、田村、田部井、菅野、オリエンタル、山根、井原、三好、池野、など約20団体が所属していたようです。

昭和33年(1958)ソ連国立ボリショイ・サーカス来日。

昭和37年(1962)以降、不況にはいると社会は娯楽どころではなく急速にサーカスが姿を消していき、昭和42年(1967)には木下サーカス、矢野サーカス、キグレサーカスの3団体のみとなってしまいました。

なお、最近まで活躍していたのは木下サーカス、矢野サーカス、キグレサーカス、柿沼サーカス、国際サーカスの5団体でしたが、平成7年には国際サーカス、そして8年には矢野サーカスが活動を休止してしまいました。
従って木下サーカス、キグレサーカス、柿沼サーカスの3団体となってしまったのですが、8年12月にゴースターズというファミリーサーカスのメンバーが中心に「ザ・ポップサーカス」という新しい団体を旗揚げしました。
ニューサーカスという流れが全世界を覆う中、これからの日本のサーカスにも期待していきましょう!

*なんだか昭和初期から一気に年代がすっ飛んでしまいましたが、何しろ資料がないので書きようがありません。ご容赦願います。

8.参考文献

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