日本の<サーカス>は明治に始まる、といわれるそうです。
要するに単一の見世物芸がいくつか総合されて今までにない構成で装いを新たにしたのがこの時期にあたります。しかし一つ一つの芸は突如として生まれたのではなく、源流は古代にまでさかのぼり中国から渡来した<散楽>に見い出すことができます。
しかし、ここでは日本に<サーカス>の芽が出始めたといわれる明治あたりから話を進めたいと思います。
明治以降、曲馬・馬術のような類からしだいにサーカスの形態に近づいていきサーカスの原型があらわれてきて、いわば近代サーカスの芽が明治20年前後にでてきたといえましょう。
さてここで日本曲馬団のさきがけを2つ紹介します。ちなみに、正式に「曲馬団」という名称が見えてくるのは、明治12、3年に上野で平和博覧会が催されたときが最初のようです。
これをきっかけに日本の曲馬団は全国的にサーカスと名乗るようになり、サーカスは庶民の娯楽として定着していきました。
黄金期を迎えたサーカスもやがて太平洋戦争で芸人も若い衆も徴兵に駆り立てられ、昭和17年(1942)にはサーカス団は全部で約33ほどありましたが、戦時中は国内情勢強化という理由で全猛獣を毒殺または銃殺し、手足をもぎ取られたと同然の状態まで追い込まれたサーカスは残った者達で細々と慰問興行を行っていました。
昭和28年(1953)にはアメリカの超大作映画「地上最大のショウ」が上映され、リングリングサーカスの全容が紹介されました。
昭和31年(1956)には「日本仮設興行協同組合」が設立され、有田洋行、木下、シバタ、矢野、キグレ、ゴールド、赤林、日本、原田、カキヌマ、金丸、国際、田村、田部井、菅野、オリエンタル、山根、井原、三好、池野、など約20団体が所属していたようです。
昭和33年(1958)ソ連国立ボリショイ・サーカス来日。
昭和37年(1962)以降、不況にはいると社会は娯楽どころではなく急速にサーカスが姿を消していき、昭和42年(1967)には木下サーカス、矢野サーカス、キグレサーカスの3団体のみとなってしまいました。
なお、最近まで活躍していたのは木下サーカス、矢野サーカス、キグレサーカス、柿沼サーカス、国際サーカスの5団体でしたが、平成7年には国際サーカス、そして8年には矢野サーカスが活動を休止してしまいました。
従って木下サーカス、キグレサーカス、柿沼サーカスの3団体となってしまったのですが、8年12月にゴースターズというファミリーサーカスのメンバーが中心に「ザ・ポップサーカス」という新しい団体を旗揚げしました。
ニューサーカスという流れが全世界を覆う中、これからの日本のサーカスにも期待していきましょう!
*なんだか昭和初期から一気に年代がすっ飛んでしまいましたが、何しろ資料がないので書きようがありません。ご容赦願います。
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