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太神楽曲芸について
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太神楽(だいかぐら)という名を知らなくても、海老一染之助・染太郎の傘回しを中心とした曲芸は多くの方々がTV等でご覧になったことがあるかと思います。そうです。彼らの芸を「太神楽(曲芸)」と呼びます。
でも私を含め大半の人は太神楽の事をあまり知らないと思い、太神楽についてまとめてみました。
ただし一口に太神楽と言っても舞、歌、囃子、茶番、寸劇そして曲芸ありと、まさに日本の民俗芸能の集大成と言えるほどの総合芸能ですので、ここでは的を絞り私の特に好きな曲芸についてまとめてみました。

お断り:
ここでは「ダイ神楽」の「ダイ」を「太」と表記していますが、それは「ダイ(太、大、代)神楽」等と表記するのは読みづらいという判断からで他意はありません。
ただし流派毎に「太神楽」あるいは「大神楽」と表記は決まっていますので注意して下さい。
なぜ「太神楽」というのでしょうか?
本田安次さんは長年全国を踏査して日本の民俗芸能を整理・分類し、その著書「伝統芸能の系譜」では、太神楽を『神楽』のうちの『獅子神楽』に分類しました。
神楽とは、神を祭る時に奏する舞楽のことをいいますが、のちの伊勢神宮や熱田神宮の信仰の伝播者である御師(おし)という下級の宗教者による、神事としての神楽舞を太神楽と言います。
もう少し具体的にいうと、江戸時代では伊勢詣りが大衆の信仰とレジャーをかねた最高の行楽となり、伊勢(または熱田)へ参拝する人々が増加するのと並行して、伊勢(または熱田)から各地へ出張し、神札の配布や祝祷を行う太神楽の巡回も盛んになりました。すなわち、太神楽とは地方の信者の参拝を代行する、つまり代参の意味から「代神楽」だったという説があります。
しかし、伊勢の御師による獅子神楽のお祓いを受けることにより、伊勢参宮をして大規模な神楽奉納をしたのと同じご利益を得ることが出来るという信仰から「大神楽」、または「大神宮御神楽」の中三字を省略して「大神楽」と呼ぶに至ったという説もあります。
さらには皇太神宮などの表記と同じように美称の「太」を用いて「太神楽」となった説など、「ダイ神楽」のダイについては各研究者によって諸説が唱えられ、歴史的にも、江戸時代に書かれた随筆などには、大・太・代がとりまぜて使用されていたようです。
いずれにしても太神楽が大神宮と各地方を連結する立場であった事には相違ないわけです。
いつ頃から「太神楽」が始まったのでしょうか?
永正年間(1504〜1521)の末期、伊勢国度會郡山田郷が飢饉に見舞われ、しかも悪疫が流行したので、これを払うため獅子頭を産土神として祭り、家々をめぐって獅子を舞い、報謝を受けた事に始まったという説があります。
また、いずれが元祖であるかは明かではありませんが、古くから伊勢派と熱田派の2派があり、それぞれ伊勢神宮、熱田神宮の神官の子弟が獅子頭を廻し、「代神楽」として全国を廻り、いつしか獅子舞を主とした神楽舞に放下の芸(曲芸)が加味されて、現在の太神楽の形が作られました。
いずれにせよ四百数十年余りもの歴史があるということです。
では「太神楽」の内容は?
内容としては主に<舞>と<曲>とに分かれます。
<舞>は獅子頭を御神体と仰ぎ、それを捧げて人家を訪ね悪魔祓いの祈祷を目的とした<神楽舞(獅子舞)>であり、<曲>は娯楽性ゆたかな余興として<放下(曲芸)>を見せるというものですが、曲芸の方を独立して別に「太神楽曲芸」と呼ぶことがあります。
太神楽社中の構成を教えて下さい。
<社中>とは辞書をひくと、邦楽などの同門・仲間、と書かれてあるので、組とか一行とかいったような意味と考えてよいでしょう。
太神楽の一組の人員は時代により異動もありましたが、親方と道化師が1人づつ、鳴物師が3人、道具をかつぐ者が1人の合計6人が一座となり構成していたようです。
また以下のような記述が文献に残っています。元文四年(1739)の江戸太神楽一行の構成例です。
たし持1人、笛吹2人、曲太鼓打2人、小太鼓打2人、鼓打2人、曲拍子1人、ささら摺り1人、その他獅子頭並びに太鼓長持にかざり人足2人の総員13人の構成。
あるいは、神楽師1人、猿田彦1人、太神楽獅子舞2人、曲太鼓打2人、囃子方6人、神楽持4人、町人4人、世話人4人の総員24人の構成。
または町廻りしては、親方、笛吹1人、太鼓打2人、鉦(かね)1人、獅子1人、会計係1人の総員7人の構成といった例もあります。
また伊勢大神楽でも各組の人数は7〜8人は必要ですが、少ない組では4人、多い組では十数人ほどで、構成は舞手2〜3人、放下師1〜2人、後舞2人、道化師、笛、太鼓、銅拍子などとなっています。
太神楽は全国にどのくらいあるのでしょう?
全国に分布していた太神楽も、高齢化がすすみ跡継ぎが無く次々に廃業していき、今はわずかに残っているというのが現状のようです。
それぞれの太神楽の現状を調べてみました。
水戸大神楽について
江戸初期に常陸国足黒村(現茨城県茨城町)に土着した神楽師・宮内丹後守(元禄14年没)を祖とし、水戸家お抱えの大神楽として登用されたのは、天明5年(1785)六代目家元宮内求馬の時でした。
徳川時代には、大神楽の巡廻地は三里四方が一切興行止になり、さらに水戸大神楽が出向の村は、農止となり庄屋が紋付羽織袴という威儀を正した出迎えをし、村の鎮守様に神楽を奉納、庄屋宅の悪魔祓いをしてから村内を廻りました。

江戸の意気を象徴している江戸太神楽に対して「格調高く重々しさを大切に」申し継がれているのは、徳川御三家の水戸藩の御用を勤めてきた誇りと、お祓いを中心に行動しているためともいわれます。
また昔より江戸太神楽との関係は深かったようです。
なお水戸大神楽は、平成6年(1994)文化庁芸術祭参加公演「芸術祭賞」を受賞しています。(十八代宗家・家元 柳貴家正楽)

演目について以下に記します。

[祈祷舞]

[祝祷舞]
[神歌(神楽歌)]
[曲芸]
[演芸種目]

江戸太神楽について
熱田派の太神楽は寛文年間(1661〜1672)に江戸中心に進出し、今日伝えられる関東系太神楽の母胎として分布しましたが、伊勢派も2、30年遅れて江戸に移りました。徳川幕府全盛期には江戸の太神楽は、熱田派・伊勢派それぞれに12組と定まり、俗に言われた天下祭りの山王、神田明神、根津権現祭礼には太神楽は御用神楽として華々しく祭りの先払いの役を勤め、将軍家の台覧も蒙り、華麗な芸は江戸の風物詩ともなりました。昭和初期まで赤丸一・白丸一・翁家(おきなや)・湊家・宝家・大丸・丸井・海老一・寿家・バンカラ・豊来家などといった屋号の親方連がいて互いにけんを競い、太神楽の常打小屋などもあったとのことです。
やがて、江戸に急激に増えた寄席の芸人不足を補うため、それまで町廻りを専門としていた太神楽が寄席に進出し、太神楽のほとんどの演目が寄席に吸収され、寄席の色物として定着しました。

さて太神楽の演目は昔から<太神楽十三番>といって、それぞれの名義と曲の変化があり、概要を以下にまとめます。
ただしこの演目は基本的なもので実際はもっとバリエーションがあります。

[10種の曲芸]

[3種の舞]
昭和に入り東京の寄席の舞台などに立っている事業太神楽師が「大日本太神楽曲芸協会」を昭和14年(1939)に設立し、昭和18年(1943)の初めての会員名簿によると、会員は、会長・十一代鏡味小仙、副会長・鏡味小鉄、副会長・海老一海老蔵を筆頭に支部2ケ所(茨城支部、東北支部)をあわせて総勢138名でした。

が、現在では、翁家和楽会長、翁家喜楽副会長のもと、協会員は三十数名で、会員の高齢化が進み慢性的な後継者不足の状態が続いています。

そこで日本芸術文化振興会(国立劇場)は、太神楽の研修生を募集し後継者育成事業にのりだしまし、平成7年(1995)より研修生を募集し、基礎教育を始めました。太神楽曲芸協会幹部の指導のもとに投げ物、立て物、囃子、独楽(こま)、舞踊、、長唄、講義、実習などが行われます。

さて江戸太神楽を観るには、2月の神楽坂・毘沙門天での奉納演芸と町廻り、5月上旬の国立演芸場での演芸家連合主催の「演芸まつり」での太神楽公演、同じく5月の川崎大師での奉納演芸といった年中行事があげられます。

その他には日本橋の三越が現在の建物に改築される<地鎮祭>を担当したのは丸一の太神楽だったそうで、現在も新年には初獅子を奏しているようです。

また太神楽が歌舞、音曲に見られるものには、清元の「鞍馬獅子」と常磐津の「神楽諷雲井曲毬」俗に「どんつく」があります。
「鞍馬獅子」は、厩の喜三太が獅子を舞うという簡単なものですが、「神楽諷雲井曲毬」はその名題の示す通り、太神楽の曲太鼓と籠鞠とが見もので、その中で太神楽の由来をうまく歌いこんでいます。
平成5年(1993)12月に国立劇場で上演したこの「どんつく」に、太神楽籠鞠の曲芸が出てきますが、これは鏡味家のお家芸で鏡味小仙十三代家元が坂東八十助の指導を担当しました。

伊勢大神楽について
伊勢大神楽は、獅子舞を中心に放下とよばれる曲芸と、それにからむ万歳によって構成される芸能であり、三重県桑名市太夫を本拠地として、現在は宗教法人伊勢大神楽講社として、西日本を中心とする広範な地域(三重・岐阜・滋賀・福井・京都・大阪・和歌山・兵庫・岡山・鳥取・広島・山口・香川の2府12県)を巡回しています。

毎年12月24日午後、三重県桑名市太夫町の獅子頭を神宝にまつる益田神社に、各社中が集結し祈願の後、社前で大神楽を奉納します。これを<舞い初め>といいます。 そして社中ごとに桑名を出発して、元日から12月にかけて、近江をはじめ北陸、近畿、山陰、瀬戸内、四国など、毎年決まっている日程で各地の持ち場へ巡業に行きます。、一軒ごとにお祓いに廻り、こうして各戸を廻った後、村や町の中心となる社寺の境内などで<総まわし>と称する芸づくりを公開し、神社に奉納します。

山本源太夫の例に示すと、正月から4月までは滋賀県愛知川町、五個荘、近江八幡、長浜などを巡り、5月には福井県に入って武生、鯖江、福井など、9月半ばから12月下旬には大阪府の河内地域を廻ります。ただそういった回檀の途中でも2度桑名に戻ってくるそうです(4月2日大福田寺聖天祭、10月13日神館神社秋祭)。また、こうした日程は何月何日頃にどの村を廻っているというところまであらかじめ定まっています。

以前は大神楽の一行は1日に平均8時間、16キロ程度を歩き、150軒ほどを廻り、1年間のほとんどを旅に過ごし、師走に入ってから桑名の本拠に帰って、道具類を整備しながら再び正月を待つといった具合だったようです。昔は徒歩で荷車を曳いていましたが、今ではワゴン車のようですし、都市化が進み行かなくなってしまった所ができしまったようです。

伊勢には大神楽の拠点が二つあり、ひとつは「太夫村」、もうひとつは「阿倉川」です。「太夫村系」と「阿倉川系」とは、芸態についてはもみこんで(合同で)やっているので相違はありません。
伊勢大神楽講社へ加入している大神楽組は、最盛期には太夫地区に12組あったようですが、平成7年(1996)時点では、山本源太夫、山本勘太夫、森本忠太夫、加藤菊太夫、加藤源太夫、松井喜太夫、石川源太夫の7組で宗教法人として活動しています。 桑名市太夫に本拠地があるのは、山本源太夫、森本忠太夫、松井喜太夫の3組で、石川源太夫は阿倉川系である。また、山本勘太夫は隣村に、加藤菊太夫、加藤源太夫はそれぞれ巡回する鳥取県と滋賀県に移転しています。
ちなみに伊勢大神楽は、昭和56年(1981)1月28日付けで国の重要無形民俗文化財に指定されています。

伊勢大神楽講社に属していない伊勢大神楽というものが存在します。これは伊勢大神楽の各組で修行していた人たちが、講社に属さず自ら「伊勢大神楽」を名乗る組をつくって巡業するというもので伊勢大神楽の広がりを感じます。

伊勢大神楽の内容についてですが、舞と曲とに分かれます。舞は獅子舞で、曲は放下という曲芸です。

[舞(獅子舞)]

[曲(放下)]

「太神楽」と「ジャグリング」の違いは何でしょうか?
太神楽は神事舞である獅子舞が中心であり、放下芸(曲芸)はあくまでその後に加味されたものと考えられます。この事を念頭に置いて、ここでは曲芸部分にのみ注目して違いを考えてみます。

19世紀後半以降、多くの太神楽曲芸師たちが海を渡り欧米のジャグラーたちに影響を与え、逆に欧米ジャグリングを日本に持ち帰り、互いの曲芸文化の交流を果たしました。
そのため使っている道具、例えば撥=クラブ、鞠=ボール、花笠=リング、小刀=ナイフ、松明(たいまつ)=トーチ、皿=プレートというように太神楽でもジャグリングでも道具は似たような物を使い、投げ物(トスジャグリング)や立て物(バランス)など技術的にも共通点が多々ありますが、一つの違いとしては、太神楽は曲芸を演じる<太夫>とその太夫を文字どおり後見する<後見>で演じるのが本来の型ということです。(後見は道化師あるいは目黒師とも呼ばれます)
つまり太神楽では<しゃべり>も芸のうちで演ずる人なりに工夫をして悠揚とした掛合をして芸の味付けをしています。太神楽の魅力は「技術」だけではなく、「口上などの芸」の豊かさに支えられているというわけです。
また、双方とも「技(わざ)」を披露する点では共通していますが、太神楽曲芸には全て「由緒」、「縁起」のいわれがあり、そこに精神・魂が宿ることが大切なのです。「至芸神に通ず」(水戸大神楽より)を目標にするところがジャグリングとの根本的な違いといえます。


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